石川県加賀市立金明小学校の設計について
石川県加賀市金明小学校は、公募によるプロポーザル、しかも45歳以下の若手建築家に仕事の機会を与えようという加賀市長の粋なはからいによって、安藤忠雄氏を審査委員長として内藤廣氏、富田玲子氏によって審査が行われ、幸運にも最優秀賞となりはじまった仕事です、当時34歳でした。敷地のある石川県加賀市は福井県との県境にあり、市内には山代、片山津、山中温泉など有名な温泉地や、北前船の里として有名な橋立港があり、その他、九谷焼、山中の拭き漆の産地有名で、「日本百名山」の著者である深田久弥、雪博士として有名な中谷宇吉郎の出身地でもあります。事業のプログラムは、40年近く前に建設され老朽化した校舎と講堂の建て替えで、児童数約140名、延べ面積2800平米と小さな小学校です。上空を小松基地から飛び立つ戦闘機が飛ぶため、防衛施設局仕様の防音1級校舎とすることがハードとして求められました。
「地域社会に学校建築を取り戻す」
この小学校でめざしたことは、学校建築を地域社会に取り戻そうという作業であったように思います。明治期に日本で学校建設がはじまった頃には、地域の人々が協力して、用地を提供する人、材木を提供する人、労働奉仕をする人など地域社会が子孫の教育のため、有形、無形の支援をし建設されていました。そうして出来上がった校舎は地域社会にとって誇りであったに違いありませんし、愛着を持って使われていたはずで、今なお日本各地で地域の文化遺産として保存されている校舎も少なくありません。しかしながら高度成長期以降の校舎建設はどうでしょう国の方針で教育の標準化がなされたように校舎まで全国どこへ行っても標準化され、地域特性に関係なくRC造南向きの四角い箱となり、地域社会の学校建設に対する情熱も薄れると同時に学校教育自体への感心も薄れていったように思います。昨今、頻発する学校を舞台とした事件もこうした背景と無縁とは思えません。こうした問題意識は設計者だけが感じていたことではなく、地域社会や行政も含めて問題意識として共有されていたように思います。
「風土とつながりをもつ校舎配置」
「私のふるさとの山は白山であった。白山は生家の二階からも、小学校の門からも、鮒釣り川辺からも、泳ぎに行く海岸の砂丘からも、つまり私の故郷の町のどこでも見えた。真正面に気高く見えた。それは名の通り一年の半分は白い山であった」作家の深田久弥は日本百名山のなかでこう書いています。敷地を初めて見た時、2月のピンと張り詰めた空気のなか雪で白く覆われた白山がたいへん印象的でした。敷地は東側をその白山を中心とした山の連なりに囲まれ、西側は日本海を遠くに望むことが出来きる加賀平野の田園地帯に位置します。
ここに通う児童たちの住む8地区の集落は田園を挟んで等距離で小学校を取り囲んでいて、それぞれの集落全てに神社があり、その単位でコミュニティが今なお風土とともに息づいています。校舎の配置は第一にこうした美しい自然環境のある風土に呼応させられないかと考えました。そしてまず白山への景観を活かせる軸線を設定し、この軸線に従って校舎の中心となる講堂を配置しました。また白山連峰が加賀平野を取り囲むのと同じように、校舎も講堂から両翼を伸ばしながらグランドを取り囲む形とし、加賀平野を見立てとした学校領域を形成する校舎配置としました。この配置はさらに児童が住む神社を中心とした集落の領域、小学校の領域、集落と小学校を含めた学校区の領域、そしてそれを取り囲む加賀平野の領域という四つの白山を中心とした同じ空間構造をもつ領域を明確にし、集落から加賀平野までの領域を入れ子にしながら階層性をもって秩序立てています。こうした自然環境豊かな風土につながりをもつ校舎の配置計画は、地域の人たちにとって親しみやすく校舎建築に対して感情投影しやすい下地となりました。
余談ですが、完成した校舎の姿は求心的な配置と景観軸によるせいか、ルドゥーの理想都市やイタリアのヴィラのような共同体建築を模したような佇まいにも見えます。
「多様な場の連鎖」
校舎は多様なスケールの空間によって構成されています。12m近い天井高をもつ講堂、階段のある吹き抜けのパッサージュ、トップサイドライトのある普通教室、教室前のオープンスペース、木の列柱廊のあるパーゴラ、3階の高さのある展望台、2階の特別教室群は平面もスケールも全て異なります。また校舎がグランドを取り囲む配置は様々な方向の窓を持つこととなり、それは白山の方向であったり、桜並木の方向であったり、グランドの方向であったり、あるいは展望台から日本海が見えたりと空間のスケールの変化とともに外の風景も印象的に変化します。こうした多様な場の連鎖は児童の日々の学校生活に変化を与え活き活きとしたものにし、そしてここで過ごす六年間の学校生活は印象的な場所の記憶を伴って心に刻み込まれると考えています。
「地域資源を活かす〜杉材、九谷焼、漆」
「木を活かした校舎」というテーマがプロポーザル時からありました。であれば本来は木造で建設されるべきなのでしょうが、防音1級校舎の仕様のためRC造が絶対条件でありました。そういう制約条件のなかで、木を活かした校舎とするため、外装では防音性能に関係しない庇とグランド側のパーゴラと雁木の列柱で杉や松を使用しました。内部では講堂と普通教室をメインに杉板貼りにし、校名の由来となっている天然記念物の金明竹に配慮して講堂のベンチの背もたれパネルや照明器具のカバーなどポイントとなる部分に竹材を使用しています。また加賀市は九谷焼の発祥の地であり、山中漆器の産地でもあります。校舎建設に伴い九谷焼組合の人たちの協力により児童に床に埋め込む金明竹をモチーフにした九谷焼タイルを制作指導をしてもらい、展望台には山下一三さんという作家の方に作品を制作してもらいました。一方、山中の漆組合の職人さんには講堂の五つの竹パネルに伝統色の加賀五彩色に拭き漆仕上げをしてもらい、2階にある和室でも建具、枠、天井、地板を拭き漆仕上げてもらいました。
「オープンな建設プロセス」
地域の住民で組織された建設委員会との意見交換、児童への説明会とワークショップ、学校職員の意見の吸い上げを何度も行いました。また建設段階では前述の児童による校舎に使う九谷焼タイルの制作、ゼネコンによる児童への建設現場のスケッチ会、また学校側からは児童の総合学習の時間に小学校建設の過程がビデオ制作され地元テレビ局で放映されました。このような取り組みは建設業者や学校、教育委員会、地域の人たちとの調整が大変面倒であり、敬遠されがちなのですが、市長をはじめとした関係者の情熱によって実現することができ、学校建築への関心を高めることに貢献出来たと考えています。
「最後に」
最後に現場監理には東京から深夜バスで毎週通いました。仕事を終えるまでに深夜バスで睡眠した日数は3ヶ月余りとなり走行距離は地球1周半ほどになりました。東京から加賀市には早朝5時に到着するのですが、その時間に見た暁の白山や荒波の日本海に浮かぶ漁り火は生涯忘れられない風景であります。
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