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地方で暮らす、働く移住ストーリー
記事作成・更新日: 2018年 7月 2日

今は、住んでいる場所も働き方も「すごく見晴らしがいい」。 東大で物理学を研究していた西塔大海さんが、福岡・上毛町での暮らしを選んだ理由

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東九州のアーバンライナー「特急ソニック」が中津駅に着くと、背の高い男性が出迎えてくれました。西塔大海さん、33歳。福岡県東端のまち・上毛町に移住してちょうど満5年を迎えたばかりです。


中津駅から、西塔さんが暮らす集落までは車で30分ほど。収穫期を迎えた、黄金色の麦畑のなかを走っていきます。「この川を越えると上毛町です」と西塔さん。車のハンドルに、親指だけを折った手を広げて説明してくれました。

この手のかたちのように、上毛町には平地と4本の谷筋があります。僕たちが住んでいるのは、小指の指先の場所。つまり上毛町の東端です。一番短い谷筋の突き当たりにある集落です。

やがて、川沿いの道がゆるやかに登りはじめ、田んぼが平田から棚田に変化していきました。最後にぐいっと急な坂道を上がりきって振り返ると、一瞬言葉を失う景色が広がっていました。足元には通り過ぎてきた町、そして遥かには瀬戸内海とその奥には山口県までが――。

ここからの景色、すごい抜けてるじゃないですか、どーんと。この抜け感、見晴らしの良さは、『ここだ!』と思えた決め手のひとつです。

うーん、圧巻。「なぜここに移住したのですか?」という質問への答えとして、この景色にまさるものはないかもしれません……。しょっぱなからガツンと一発、パンチをお見舞いされた気分のなか、インタビューははじまりました。

東日本大震災での経験が「暮らし」を変えた

西塔さんは山形県生まれ。上毛町に移り住む前は、東京理科大学で「素粒子理論物理学」を学び、卒論のテーマは「6次元トポロジカルソリトン」……?その後、東京大学大学院では「水素エネルギー」の研究...…えーと、どうして物理学の世界から、いや、東京から上毛町への移住を考えたのでしょうか?

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東日本大震災が起きたとき、首都圏では電車が止まり、スーパーからどんどんモノがなくなりました。電力不足に対応するために輪番停電が実施され、テレビは震災報道で埋め尽くされました。大地震は、地面とともに都市生活の基盤をも揺るがしました。


非常事態に陥った東京を目の当たりにして、西塔さんは「東京を離れたほうがいいのかもしれない」という気持ちを抱きました。そこに、宮城・気仙沼市に帰省中だった友人の被災が重なります。

震災から1週間後、東京に戻ってきた友人と一緒にダンボール6箱分の物資を買い集めました。とても一人では運べない量なので、3日くらいのつもりで、一緒に荷物をかついで気仙沼に行ったんです。

ところが、震災直後の緊急支援バスは被災者の方たちの予約が優先。西塔さんは、東京に帰る手だてもなく避難所に留まることになりました。


余っていた毛布を借りて避難所の物資置き場で寝かせてもらい、温かいごはんを分けていただいて。これでは、どっちが助けに来たのかわからない(笑)。何かお返しをしなければと、避難所の水汲みのお手伝いをさせてもらいました。

「時間だけはありますから」と一所懸命働く“東京から来た大学生”の姿は地元のおじさんたちの目にとまります。西塔さんは避難所の運営について考えるスタッフの一員に加わり、東京に帰る予定はどんどん先送りされました。そして、震災から約1ヶ月後。西塔さんは避難所に起きている変化に気がつきます。


最初に避難所を離れたのは子どもがいる若いご夫婦でした。『仕事場はいつ復旧するかわからない。子どもがいるから働かなければ』と、町に見切りをつけて出て行ってしまう。年配の方たちは、地域への思い入れもあるから仕事がなくても留まろうとする。今、過疎地域で起きていることが、200倍速ぐらいで進行していたわけです。

「今すぐ仕事をつくらなければ誰もいなくなってしまう」。西塔さんは、避難所の運営スタッフと共に「一般社団法人気仙沼復興協会」を設立。津波で流された家を片付ける「清掃事業」、写真を復元して持ち主に返す「写真救済事業」など、半年で6事業を立ち上げ。気仙沼復興協会は、これまでのべ400人以上の雇用を生み出しました。

震災復興の現場には、物理学の研究者としての道を歩んでいた西塔さんにとって、今まで味わったことのない「リアル」さがありました。

 

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西塔家の庭では、南高梅がたわわに実っていました。

僕がやっていた素粒子理論は、1mmの1兆分の1のスケールの素粒子を扱いながら、宇宙の始まりを探究するという学問ですから、浮世離れしているわけです。だから、すごくリアルを求めていたんだと思います。


「リアル」を求める感覚は、結果として西塔さんの人生を大きく変えることになります。

空と土のあるところで暮らそう。

やっと西塔さんが東京に戻ったのは8月のこと。その直前に、西塔さんはとても重要な出会いをします。当時、気仙沼復興協会の理事宅に滞在していた同い年の学生さん――その後、結婚することになる、ともみさんでした。


慶應義塾大学SFCでソーシャルイノベーションを学んでいたともみさんの目には、西塔さんは異色の存在に映ったようです。

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ともみさん:物理を研究していた学生が、ある日突然震災復興のための事業を立ち上げたという事実にめちゃくちゃ衝撃を受けました。『ソーシャル』という形容詞さえ知らない彼に、いろんなことを伝えたらどうなるんだろう?と好奇心が湧いてきて。大学院の授業に連れていったり、社会起業家の方に紹介したりしました。

ともみさんの紹介で出会うローカルな社会起業家たちは、西塔さんが気仙沼で直面した「地域に仕事がなくなって人がいなくなる怖さ」に向き合い、未来をつくるリアルな事業をつくっていました。西塔さんは、彼らが語る未来に「リアル」を感じます。

西塔さん:物理も面白かったし、カリフォルニアに留学していたときは、シリコンバレーのIT業界にも惹かれました。でも、いまいち自分の居所を見つけられなかったんですよ。ところが、ローカルには同じくらい面白い人がいてワクワクしながら事業を語っている。その事実が、震災を経験して東京を離れたいと思っていた僕を引っ張り上げるようにして、ローカルな世界に向かわせました。

2013年の夏、いよいよ本格的に移住を考えはじめた西塔さんは、「ともみさんの実家がある福岡市内から1時間半でアクセスできる」「人口2万人以下の町」「気持ちいい風が吹いているところ」というゆるやかな条件に合う町をプロットし、ふたりで巡ってみることにしました。

 

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空と土のあるところで暮らし、「柴犬を飼いたい」と思っていたそうです。彼女の名前は「村長」

西塔さん:空と土のあるところで暮らそう。それはきっと気持ちのいいことだし、気持ちいいことはきっといいことなんだろう、と思ったんですね。僕は、人間としての基礎をつくる時期をずっと数式と向かい合っていたので、どこまで行っても考え方は科学なんです。論証できない感覚に委ねて行動したのは、たぶん人生で初めてでした」。


このとき、最初に訪れた町こそが、現在西塔家が暮らす上毛町だったのでした。

移住を方向付ける「3人の人」

初めて訪れた上毛町で、役場のひとに案内されたのがこの集落。西塔さんとともみさんは、まずこの景色に惚れ込みました。

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取材に伺った日は霞がかかっていましたが、晴れていれば瀬戸内海の島々、対岸の山口県の山並み、国東半島のむこうに大分県の姫島までがくっきりと見えるそうです。遠くを見晴らしていると、自然と呼吸が深くなり気持ちがぐっと落ち着いてきます。

「こんなところに住めたらいいな」という気持ち、わかる気がします。

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この景色に加えて、上毛町の人たちとの出会いも移住の決め手となりました。初めてやってきたふたりのために、集落の人たちは宴会を開いて歓迎してくれました。

西塔さん:たまたま最初に訪ねた町で、ステキな人たちに出会えて。『この人たちとなら楽しく暮らしていけそうだし、いざと言うときも生き延びられそうだな』と思ったんです。みんなでごはんを食べて、お酒を飲んでいるとすごく楽しくて。酔っぱらったテンションで『じゃあ、移住して来るのでよろしくお願いします!』って宣言して握手しました(笑)。だから、結局他のどの地域とも比較をしていないんですよ。

 

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同じ集落に住む木こりの山下盛文さんがつくった「ライブハウス」。西塔さんとともみさんが初めて上毛町にきた日、宴会を開いてくれたのはここでした。

 

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同じ集落に住む木こりの山下盛文さんがつくった「ライブハウス」。西塔さんとともみさんが初めて上毛町にきた日、宴会を開いてくれたのはここでした。

急転直下の決断にビックリしたのは役場の人たち。「家はどうするの?仕事は?」と家探しを手伝い、さらには上毛町に地域おこし協力隊制度を導入。「協力隊員としてやってみませんか」と紹介までしてくれたそうです。


西塔さんは、「移住を方向付ける人との出会い」に、地元のキーマンと先輩移住者、役場の人の3人を挙げます。地元のキーマンは、移住者と地域の人をつないでくれる存在。たとえば、借りる家の大家さんが後ろ盾になってくれると理想的です。また、移住した人の目線でアドバイスをもらうには、先輩移住者が最適です。そして、未知の地域を訪ねるときは役場の人が頼みの綱です。

西塔さん:移住の制度はどんどん充実していますが、目を引く面白い制度をつくっている町であれば、熱量と吸引力のある役場の人が必ずいます。面白い制度をつくる人と出会えるまちなら、きっと移住の可能性があると思います。

西塔さんとともみさんにとって、初訪問の2泊3日の間に「移住を方向付ける3人」に出会ってしまったことが、決定打になったと言えるかもしれません。それから数ヶ月、ふたりは移住と結婚の準備を慌ただしく整え、2013年春に上毛町に引越し。新婚生活をスタートしたのでした。

 

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移住前に、東京で開いた結婚パーティの写真。

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移住の入口をつくり、町に循環を生み出す。

西塔さんは、上毛町の地域おこし協力隊員として3年間活動しました。上毛町の「田舎暮らし研究村構想」に基づいて、1年目はその拠点となる「上毛町田舎暮らし研究交流サロン(通称、ミラノシカ)」を整備。「福岡R不動産」との連携のもと、全国初のDIYリノベーションの教育プログラム「KOUGEデザインビルド」によって古民家のリノベーションを行いました。

 

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移住の入口をつくり、まちに好循環を作り出すことを目指す「田舎暮らし研究村構想」

 

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「田舎暮らし研究村構想」プロジェクトの一環でつくられた「上毛町田舎暮らし研究交流サロン(通称:ミラノシカ)」

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九州の各大学から集まった8名の学生とともにDIYで仕上げた空間。西塔さんにとっては2軒目のDIY(1軒目は”村長”(愛犬の名前)の家!)にも関わらず、独学で学生の指導にあたりました。

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世帯数11軒(2014年当時)の谷間の集落にあるにも関わらず、「ミラノシカ」はオープンした月から100人以上の来訪者を集めました。その背景には、上毛町が実施していた「上毛町ワーキングステイ」という1ヶ月間のお試し居住プログラムの成果がありました。


「上毛町ワーキングステイ」は、1ヶ月の家賃500円(!)で物件を借りて、地域の活動に関わることができるプログラム。「移住の受け皿をつくる前に、都市部で暮らす人の声を聞いてみよう」「町の未来を一緒に考えてくれる人を見つけたい」という思いからスタートしました。

ともみさん:「『ミラノシカ』は、『山の上でネットを使って仕事できる場所がほしい』というワーキングステイの人たちの声を反映したプロジェクトでもありました。彼らは『本当につくってくれるなんてすごいね!』と喜んで、情報発信やブランディングを手伝ってくれました」。

 

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ワーキングステイで滞在していた人たちと一緒につくりあげた「みらいのシカケ」ウェブサイト(http://miranoshika.org/)。

 

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2015年秋の上毛町ワーキングステイに参加したイラストレーター・デザイナー・小林未歩さんと西塔夫妻。小林さんは、翌2016年から地域おこし協力隊員として着任した。

ワーキングステイの面白いところは「移住をゴールとしない」ということ。町のなかの関係性を「かきまぜる」役割、そして町とのつながりを持ち続けることが期待されています。

西塔さん:地元住民だけでは地域をかきまぜる役割は少し弱いし、移住者も移住して数年たてば、どんどんよそ者としての視点を失ってしまう。1ヶ月だけ住むワーキングステイは、いろんなところに顔出し、口出しもできる。僕らにとっては、毎年新しい視点を提供してくれる大切な存在です」。

現在「ミラノシカ」は、この集落に住んでいる地域おこし協力隊の小林さんなどが主に管理。移住相談の窓口になると同時に、地域の人たちが立ち寄る場所にもなっています。上毛町に興味を持った人はまず、「ミラノシカ」へ。事前にメールか電話で問い合わせてから訪ねてください。

西塔さん:ミラノシカに来てもらったら、まずはいろいろお話を聞かせていただいて。家、仕事、人のつながりのうち、何を一番必要とされているのかをスタッフが見極めてご紹介します。何度か足を運んでいただくなかで移住する方もいれば、毎年家族で旅行に来る場所になるかもしれません。僕らも仲間は増やしたいし、ステキな方が近くにいてくださるのはうれしい。みなさんがそれぞれに楽しく暮らすお手伝いをしたいと思っています」。

一瞬ごとの判断で舵を切る。その先に未来があればいい。

地域おこし協力隊の任期を終えて後、西塔さんは個人事業主として全国の企業や自治体からの相談を受けながら、企画を生み出す仕事をしています。と言っても、西塔さんから新しい企画を立てて持ち込むのではなく、基本は「来る球を打ち返す」スタイル。

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西塔さん:よく、コンサルタントだと勘違いされるのですが、そんな大それたものではなくて。『地域を元気にしたい』『新しい事業を立ち上げたい』とヒントを求めて相談に来られた方と話すなかで企画は生まれます。僕はそのたびに建築や不動産、公共政策、農林水産業、教育などの新しいことを知り、『何なんだろう、この世界は?』と思うものに分け入って、人に会い本を読む。現状を整理し、これから起きてくることが予測できると、自分のなかで『だからこういうライン(企画)をつくっていかないといけない』という筋が見える瞬間があって。それがすごく楽しいです。僕の仕事は、整理する、企画する、共有する、という繰り返しなんです。

起業から1年、仕事は順調に増えていますが「家族と一日三食食べられる暮らし」は大切に守っています。たとえば、全国からの引き合いがあるため、どうしても増えてしまう出張も「月5日まで」。5日を超えてしまうと、「今月の出張は難しいので、来月に伺わせてください」と正直に伝えます。


仕事と暮らしのバランスを保つことも、「見晴らし」に関わっているからです。

西塔さん:昔、シリコンバレーのあるコンサルタントに『正しいときに、正しい場所に居るようにしたほうがいいよ(in the right place at the right time)』と教えられたのですが、正しい場所にいるというのは『見晴らしがいいこと』だと思っていて。人生においても、住む場所という意味でも直接的な見晴らしはとても大事で。僕にとって、この山のなかも今の働き方も、すごく見晴らしがいいんです。

最後に、西塔さんがこれからつくりたい未来について聞いてみました。西塔さんは今、この見晴らしのよい場所から、どんな未来を見ているのでしょうか。

西塔さん:人口が急激に減少していく時代において、特にこういう地方では撤退戦になってきますよね。僕らは、20世紀型の頭に教育されているので、どうしても成長を前提として長期ビジョンを描いてしまうけれど、撤退戦ではその場その場をすごく冷静に、定量的に状況を判断しながら被害を最小限に留めることが重要です。それは、個人の生き方においても当てはまるんじゃないかな。一瞬一瞬で、楽しいと思う方向に舵を切った結果として、いい未来を描けていればいいなと思います。

空と土のある場所で、家族3人と愛犬「村長」と幸せに暮らすこと。言葉にすると、ごくふつうでシンプルになりますが、このシンプルさこそが西塔さんが繰り返し話していた「見晴らし」なのではないかと思います。


もし、この記事を読んで「見晴らし」を体験してみたくなったら、ぜひ上毛町を訪ねてみてください。どこに暮らすことになるとしても、一度経験した「見晴らし」は、その後の人生の指針のひとつになるかもしれません。


文 杉本恭子
写真 坂本司


SMOUT:福岡県上毛町


この記事はカヤックLivingが運営する移住スカウトサービス「SMOUT」からの転載です。

SMOUT

https://smout.jp/

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