「暮らしのものさし」では、ただ消費者として暮らしを営むのではなく、自分の暮らしをデザインする、“暮らしのつくり手”たちを紹介しています。※この特集は、SuMiKaとgreenz.jpが共につくっています。
みなさんの「暮らし」に不可欠なものは何ですか?お気に入りの家具や、毎日を彩る暮らしの道具?理想の住まいは一軒家orマンションですか?人によって思いつく暮らしはさまざま、生き方も十人十色。
でも「思い描いていた理想の暮らしを手に入れたら、もう次の暮らしを夢見ている」なんていう経験はありませんか?それはもしかしたら、“理想の暮らし”を”消費”しているのかもしれません。
”暮らし”は”生きる”の同義語。少しずつでも”暮らし”を自分でつくっていけたら、より深い充足感に満たされて生きられるような気がするのです。そこで、今日みなさんとシェアしたいのは、衣食住を自らつくり出そうとする暮らし。和歌山県紀の川市で農家を営む「米市農園」の代表、高橋洋平さんに暮らしぶりを伺いました。
“みんなで生きていける農法”を実践
「米市農園」という屋号が、すでにひとつの物語です。歴史は1585年にまでさかのぼります。豊臣秀吉が、一大宗教都市を形成していた根来寺(和歌山県紀の川市)を襲撃したとき、500人の兵をひきつれて迎え撃った高橋市衛門という人物。これが洋平さんのご先祖様。市衛門は討ち死にしてしまいましたが、高橋家はその後も代々、紀州徳川家の米を扱う役目を果たしてきました。
「何度も改装を重ねて、一番新しい部屋で築100年」という、大きくて風格のある家で、洋平さんは家族4人、居候3人、入れ替わるようにやって来ては去っていくウーファー達とともに暮らしています。
洋平さんが耕している畑は合計約1.5ヘクタール。そこで、実践している農法は主に3つ。1つ目は、”不耕起(土を耕さない)”、”無肥料(肥料を一切与えない)”、”無農薬(農薬を使わない)”ことをモットーとする”赤目自然農”。
「僕の畑は敵をつくらない」と洋平さんが言うこの農法では、土中の微生物や昆虫などの働きがふかふかの土をつくると考えます。また、一般的には雑草は刈りますが、本来雑草は土を豊かにします。光合成で有機物をつくり、刈り取って土の上に置いておくと、炭素が土中に入り、作物の成長を促してくれるのだとか。
とはいえ、微生物や有機物がたっぷり含まれた良土に育つまで、7年程かかるそう。その間はどうしても、思うように野菜が収穫できないことも。自家消費だけなく、野菜を他所で販売し、生計を立てるなら、もう少し生産効率を高めなければなりません。
そこでもう1つ実践しているのが、土を耕すものの、肥料は使わない”無肥料栽培”。また、米ぬかや油かすだけをまぜて肥料にする”有機栽培”も実践しています。色んな農法から、人間と地球にとってベストな農法を探しているのだそう。
セルフビルドの石釜ピザハウスで6次産業化
「米市農園」の麦畑を、はじめて見せてもらったときのことが、実は今でも忘れられません。残暑が厳しい秋のはじめのことでした。「こっち」と言われた方向に草をかきわけながら進むと、畑の一番奥で、まっすぐな麦たちが強い光に照らされて、きらきら力強く輝いていました。麦の穂を一粒食べてびっくり。まるでビールを飲んでいるように、濃厚で芳醇な麦の味が口いっぱいに広がったのです。
「米市農園」では、こうして穫れた自家製の麦を粉にし、生地に混ぜ合わせ、畑で収穫したばかりの旬の野菜を乗せて、さっと石釜で焼き上げたピザが食べられます。ピザハウスは、洋平さんがウーファーとともに廃材と間伐材を利用してセルフビルドしました。
農作業にはなるべく機械を使わないので、その分時間と労力がかかる。朝5時起き→野菜収穫→袋詰め→対面式マルシェに出荷&販売→帰宅は深夜1時、なんてこともしょっちゅう。「このまま野菜を売っているだけだと、死んでしまう!」となって(笑)。
その頃、周囲の人々から「石窯ピザをつくろう」という話が出ました。経営なんてしたことないから不安な気持ちもあった。でも「家を解体するから木材あげる」「喫茶店を閉める。キッチン道具と冷蔵庫あるよ」と言ってくれる人がいて、やるしかないな、と。僕と関わってくれた人や、応援してくれた人に心から「ありがとう」。その感謝の思いを次の人へ繋いでいきたいなと。
素直に生きてたら、全部みんなが用意してくれたんだよね。現代は物がたくさんあって、食べ物があって、自分で生きてるような感覚に襲われる。でも本当は全部それが人智を越えたところで用意されていて、自分を生かしてくれているんだと思う。それはネイティブアメリカンやアボリジニ、アフリカの人の生き方と似ている気がするな。だからこそこの現代に恩返しがしたい。
土があれば家もつくれる!
農家として、土と共に生きる洋平さんがいま新たに取り組んでいるのは、コミュニティスペースづくり。友人の山口暁さんをゲスト講師として招き、カリフォルニア発の”アースバッグ”という工法で、音楽を楽しんだり、ウーファーを受け入れる場をつくっています。
その工法はいたってシンプル。土、小石、砂、石灰、水、粘土をまぜたものを土嚢袋に入れ、ひとつずつ積み上げて、人力で叩いて圧縮し、壁を積んでいきます。
ある日、ウーファーから真夜中に「踊れるクラブはないの?」と聞かれたんだよね。そういえば、オーガニックのクラブハウスってない。現代の若者が楽しく遊べる場が気づいたらオーガニックで出来ていたらおもしろいなと思って。
ワークショップに私も参加してみました。これはまさに、大人の土遊び。そしてその楽しかったことと言ったら!身体をめいっぱい動かして、仲間とおしゃべりして、お日様がきらきらして、鳥が春を歌う。究極は、土と仲間があれば生きていけるのでは?という突飛な発想も、すごく実現可能に近いこととして頭をよぎるほどに、身体が喜びました。
身体を動かすのって本当はすごい楽しいことだよね。こうやって1000年〜2000年人間は生きてきたじゃない。それが、ここ近年急に、身体を動かさなくても食べ物や着るものが手に入るようになった。動かずに急に食べ物が入ってきたら、身体もびっくりするやろうなと思う。
あと、身体を動かすっていうことを労働と捉えると、動かなくなってきちゃうんだろうね。働くという言葉は、人のために動くって書くでしょ。動いてあげる気持ちから働くという言葉が生まれたんだと思ってる。でもそれを時給計算したら働くことや、手伝うことが”損”みたいな感情が出てくる。
だから僕はうちにいる居候にもあまり手伝ってとは言わない(笑)。一人ひとりが思い思いの意志でやってくれたらいい。
“衣食住”をつくり出すことは平和への一歩
「米市農園」が目指しているのは、ずばり”自給自足”。畑を耕し、食べ物をまかない、DIYで建物を建てたので、次に目指すのは “衣”の自給自足です。9年ほど前に共同出資で糸つむぎ機を購入し、メンバーを募り“和棉組”を結成。綿の種をまき、収穫して、糸につむぎ、やがて布にして野良着をつくるというプロジェクトもゆっくりと取り組んでいます。
「米市農園」で栽培しているのは河内木綿と呼ばれる主に関西で栽培されていた”和綿”の一種。日本の棉は、明治中期まで約200種類以上もの地方品種がありました。その後、外国から安価で丈夫な綿に押され、日本は昭和30年代頃を境に、生産量がどんどん低下。いまや自給率は0%。それどころか、在来種の種すら存在が危ぶまれています。
約9年前からはじめて、ようやく数百メートル分くらいの糸ができたそう。この途方もない時間と労力とを知ってはじめて「服一着の大切さがよくわかる」と言います。そうまでして、どうして衣をつくることに、こだわるのでしょう?洋平さんは興味深い話をしてくれました。
インドがイギリスの支配下だった頃、インドには綿布を織る伝統的な技法があるにもかかわらず、機械で大量生産された綿布をイギリスから買っていました。そこでガンジーは「イギリスから本当に綿布を買う必要はあるのか?綿花を自分たちの国で布にすればいいんだ。イギリスの綿布を買わないように」と言ったんです。
つまりガンジーは、戦うのではなく、自分達がどこからものを買って、お金がどこに流れているかを国民に意識させて、国を独立に導いた。これって例えば、原発の話でも同じことが言えるんじゃないかな、って思うんです。
衣食住。そのひとつひとつを、自分たちで時間をかけて確かなものにしていく。その喜びは「『子どもが歩いた、立った!』みたいな感覚に近い」と洋平さん。
この世に生まれてきて、このように生かされてるから、もう感謝しかないよね。こんなに生かされてるんだったら、環境の面でも、農業の面でも、人に対しても、恩返しができたらいいですよね。
人間は誰しも、できなかったことが成長してできるようになった。そのすべての瞬間に喜びがあって、本当はその喜びの中で生きている。そういうふうに考えると、今まで人間も傷つけあって生きてきたけれど、各自がただ“生きたい”だけで、その手段がそれぞれ違うだけだとわかったんです。
こんなに大地に根ざしているのに「毎日旅をしているみたい。全てが暮らしに溶け込みすぎて、暮らしという言葉を捉えられないくらいに“生きてる”」と洋平さん。
洋平さんのように、生産者としての生き方の、すべてを真似することはできないかもしれない。けれども、生き方のエッセンスを取り入れると、暮らしのあらゆるシーンの喜びが深まり、生活の楽しみが増えていくのではないでしょうか。