いまから1万3千年以前に始まり、1万年以上も続いた縄文時代。
ずいぶんとさかのぼりますが、たとえば茅葺き屋根や、むしろを敷き詰める土座、火を焚く炉といった縄文人の暮らしの技術は、高度経済成長が始まるちょっと前まで、日本各地で続いていました。
狩りや漁に都合のいい、川や海に近い地に定住し、すでに農耕をしていたと考えらえれている縄文人の「竪穴住居」は、どんな住まいだったのか。そこには、どのような知恵や工夫があるのか。今回は、長野県諏訪郡富士見町にある、井戸尻考古館の学芸員・小松隆史さんに、お話を聞きました。
竪穴住居って何?
地面を掘りくぼめて床とし、4〜7本ほどの柱をたて、その上に煙出しのある屋根をかけた半地下式住居を「竪穴住居」といいます。その周りには、雨水が住居内に入らないようにするための土盛りもつくられます。
多くは南側に入り口があり、なかは10畳ほどの四角形、または円形の空間。中央やや奥には囲炉裏(いろり)があり、食べものの煮炊きに使うだけでなく、照明や暖房といった役割も兼ねていたようです。
1万年ほど続いた縄文時代は、草創期に始まって、早期、前期、中期、後期、晩期と時代区分があるのですが、その時代や地域によって竪穴住居のかたちや大きさ、柱の本数はさまざまです。また、数百年で地球規模の寒冷期と温暖期が入れ替わるような急激な環境変化があったとされ、保温性のある土葺き、通気性のいい茅葺きなど気候条件による変化はありますが、共通しているのは地面を掘っている、つまり半地下であることですね。
住居の構造は、柱の頂部を梁(はり)でつなぎ、放射状に垂木をかけ樹皮で覆い、その上に土葺きや茅葺きの屋根をかけるだけ。柱をたてるときは、地面に深さ50cmほどの穴を掘りますが、穴の深さは一定ではないと小松さんはいいます。
遺跡調査で柱がたっていた穴を掘り返してみると、穴の深さはまちまちなんです。その理由は、切り倒してきた木が長ければ、その分掘っていた。つまり、木を切らずに、“上”で長さを合わせるために、柱を埋める深さで調整していたと考えられます。
柱につかわれる木は、太くても直径20cmほど。好んでつかわれたのは栗の木で、食料にも住居の柱にもなる、成長の早い栗を栽培していたことが発掘調査からわかっています。栗の木は、伐採後は柔らかくて加工しやすく、乾燥するとかたく弾力性のある性質に変化することを知っていたのでしょう。現在でもその性質を利用して、鉄道の線路のまくら木として使われています。また、柱が土に埋まる部分は、焼いて炭化させ、腐りにくくするという知恵も持っていました。
竪穴住居の耐用年数は、20年ほどです。彼らは農耕をしていたのですが、おそらく焼き畑のようなことをして、転々と住まいを移し、そして地力が回復する頃にまた戻ってくる。
ただ、住まいに限らず、縄文人には、恒久的な住まいをつくろうという発想はないでしょうね。彼らは、命がついえたらまた復活する、やや行き過ぎると、命が終わらなければ新しいものは生まれないという考え方を持っているんです。せっかく建てた住居が明日壊れるようでは困りますが、単純に木や茅が朽ちるまで修繕を重ねて、それ以上をのぞむこともなかったでしょうね。
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縄文時代の暮らしと集落
竪穴住居のなかには、囲炉裏と祭壇、土器や石器などの道具類、木のお椀やざる、栗や干した魚、肉。それから、縄や衣類を編むための植物の繊維などがありました。
中2階をつくってそこに食料を置き、下で火を焚いて、乾燥させて保存していました。寝るときは、むしろや動物の毛皮を敷くんですが、縄文時代の中期になると、柱の外側に床張りの寝床をつくっていたようです。ベンチのような、板の間です。夏は壁際の涼しいところで、冬は火の近くの暖かいところで寝ていたのだと思います。
10畳ほどの広さの竪穴住居には、3〜5人が生活していたとされています。ただし、ひと家族が3〜5人というわけではなく、集落は「男性の家」「女性の家」「若者の家」の3軒で構成されていたのが特徴です。
発掘調査で何十軒も出てくることがありますが、それは何世代にもわたってそこに集落がつくられてきたという話で、同時期に建っているのは3軒なんです。どの住居にも囲炉裏がありますが、しっかりとした大きめの住居には、女性と子どもが5〜6人。隣りの住居には男性が2〜3人。さらに別の、ひとまわり小さな簡素な小屋には、まだ独り立ちをしていない若者が2〜3人。合わせると、だいたい10人くらいがひと集落のイメージです。
考えてみると、核家族が社会現象となったのはごく近年のこと。また、世界の民族学研究においても、若者の住居が別であることは珍しくないそう。
子どもは女性の家で育てられますが、男の子はやがて狩猟を覚えるために男性の家に出入りするようになる。自我が成長するにしたがって、外へ出てはまた帰ってくる、大人と子どもの境界をさまよっているような存在です。居心地のいい“どちらでもない”期間と場所がある。そこで性教育も含めて、生きる術を学んでいたのでしょうね。
また、集落は、暮らしに必要不可欠な「水」がすぐ近くにある場所につくられました。
八ヶ岳周辺には遺跡がたくさんありますが、川がたくさんありますし、明らかに沢を意識した場所に集落がありますね。また、標高900m前後に遺跡が集中しているのですが、それは八ヶ岳の伏流水が湧き出ている標高なんです。川が近くにあれば上流でも下流でも「水」は確保できるのに、あえて冬は寒いとも思える、標高900mの伏流水が湧き出る場所を選ぶ。そこには、縄文人の水に対する何かしらの信仰があったのでしょうね。
竪穴住居は、夏は涼しく、冬は暖かい?
それでは、竪穴住居の住居としての性能は、どのようなものだったのでしょうか。
まず、半地下にすることによって、ある程度「温度」を保っていました。深ければ深いほど、土の温度は一定(17度〜18度)になります。そのため深さ1mでも、外気温の影響を受けにくい状態を保つことができるのです。現在でも床下収納で食料を保存することを考えると、イメージがつきやすいかもしれません。
つぎに、住居のなかに炉を置く、つまり火をつかうことで「湿度」を保っていました。
日本は湿潤な気候なので、湿度が高いですよね。季節に限らず、住居内で火を焚き続けることで、湿度を下げていました。冬は、火を焚き続けていることで熱が逃げにくくなると思います。
竪穴住居の頂部には、排煙や換気のための「換気口」がありますが、常に住居のなかを煙でいぶすことは、食料の保存だけでなく、竪穴住居を構成する柱などの防虫、防腐対策にもなります。これらのことからも、火を絶やさないことが重要だったことがうかがえます。
よくよく考えてみれば、江戸時代の住居であっても、外と中を隔てているのは、障子と薄い雨戸だけ。縄文時代の竪穴住居のつくりはもっと簡素ではありますが、縄文人はそれ以上快適な暮らしを知らないわけです。むしろ、それがベストだった。冬は、生きるのにギリギリの寒さだったかもしれませんが、地面を掘ること、火を焚き続けることはもちろん、火や水や土といった、いろいろな自然の力を総動員して、自分の命をつないでいたのだと思います。
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火を絶やさない、もうひとつの理由
縄文時代において、火がもつ力は2つあると小松さんはいいます。
火が持っている力のひとつは、便利、快適、安心。熱として利用する、あるいは野生動物やまがまがしきものが寄ってこないなど、現実的な便利さがある点です。
もうひとつは、神話的な領域なんです。神話の世界において、火というのは生と死の境にあるものです。命を奪う火、同時に新しい命を生み出す火。すべてがそこから収斂(しゅうれん)したり拡散したりする、その核になるのが火です。家のなかに囲炉裏を置くのは、湿気をとるために必要だったのではなく、火がそこにあるということが重要で、それは絶対的なものなんです。だから絶やすこともありませんでした。
さらに、想像を膨らませてみると、火がどれくらい重要だったかをイメージできると思う、と続けます。
縄文時代の夜。完全な闇に閉ざされています。森のなかに集落があって、そこにしか人がいない。隣りの村はだいぶ離れている。夜のあいだも家の真ん中で火が焚かれて、人が集まる……。みんなが囲んでいる空間は赤々としてあたたかいけど、自分たちの背後にある暗い世界というのは、我々の世界じゃないんです。恐ろしい神々や獣が跋扈(ばっこ)する世界。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世界です。それを隔てているのは体の真ん中で、火に向かっている体の“前”は生きている世界だけれど、“後ろ”は死の世界。縄文時代の火というものの意味合いは、そういうものなんです。
地面を掘ることの意味
縄文人が大切にしていた、神話的な領域。その精神性は土器にも現れていますが、竪穴住居をたてるとき、地面を掘ることにも縄文人ならではの意味があったのではないかと小松さんはいいます。
世界のさまざまな民族学研究を背景に、発掘される土器や石器から縄文人の哲学を突き詰めて考えると、温度が一定な、つまり恒温な環境を手に入れるために地面を掘っていたのではなく、どうも地中に潜るという感覚が重要だったのではないかと。
あらゆる生命が生み出される、根源である大地を「母なる大地」といいますが、縄文人は住居を母の胎内、母体に見立てたんです。地面に潜り込んで、そこから出てくることで、生まれる、あるいは生まれ変わるという行為を体現する。住居は単なる寝起きをする場所という感覚ではなくて、一日一日が生まれ変わる場所であるという感覚で朝を迎えていたんじゃないかと思います。
縄文時代の小屋ともいえる、竪穴住居。
「小屋」とは、簡単につくられた小さな建物のことですが、辞典で調べると、仮に建てた小さな建物、という意味もあります。
「仮に建てる」と聞くと、母屋とは別に何かしらの用途があって建てられたもの、と想像すると思いますが、縄文人にとっての家は、常に「仮住まい」だったのではないでしょうか。
縄文土器は、土と水をこね、火のなかに入れて、その火から生まれてきます。つまり、土と水と火の化学反応を利用してつくられるのが土器ですが、そこには、材料としての土や水、火があるのではなく、おそらく土の神、水の神、火の神といった、精霊とも神ともいえる存在が介在して生まれてくる。縄文人は、そういった精神性を持っていると小松さんが教えてくれました。
火がいわば神さまで、その神さまである火を雨風から守り、まつるための住まいだったとしたら、家に入ったら靴を脱ぐという、世界的にみても珍しい習慣にも納得ができそうです。
いま、現代に生きる私たちが「簡素で身の丈にあった家」を求めたとしても、縄文時代の竪穴住居までさかのぼって真似をするのは難しいことですが、火や水といった暮らしに必要なエネルギーとどのように向き合い住居に取り込むか、または昔から伝わる知恵や工夫をどのように見直し、現代の優れた技術と共存させていくかを、あらためて考えるきっかけにはなりそうです。
「家」を考えるのではなく、「家の周辺」を考える。
そこにはきっと、みなさん自身が大切にしたい、暮らしの原点があるはずです。
Text 増村江利子
Photo 砺波周平
国立音楽大学卒。Web制作、広告制作、編集を経て現在はフリーランスエディター。二児の母。主なテーマは、アート、建築、暮らし、まちづくり。長野県諏訪郡へ移住し、八ヶ岳の麓で、DIY的暮らしを始める。“小さく暮らす”をモットーに、賃貸トレーラーハウスにてミニマルライフを実践中。
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